当事件で利用されたと考えられる弁証法で、帰結が相手が
死ぬことになっても「死ぬ」と宣告するだけで実際は死なない、又は殺さなでも、論理自体が脅迫の道具と云うことになるのです。実際に死ねば、
殺人もしくは殺人ほう助なのです。打倒カルトについて、私を旗頭にすれば、どちらからも仕掛けられなり、睨み合っているしか仕方がないのです。
どのように状況が変わるか?の問題なのです。人質は論理的に拘束されているのであって身体的に拘束されているのではないのです。
身体を解放してもらっても何の意義もないのです。諸氏は何を勘違いしているのか?そのようなことが解らなくては日本はもう駄目かも知れません。
しかし我々と世界は大丈夫なのです。日本はユダヤ民族の歩みを
踏襲することになるのか?我々は大丈夫と云うことは、ユダヤ民族ようになっても、個人的には大丈夫と云うことです。私はカルト側の思想のは、
受け入れ難いものがありますが、家族は自分の身を削って国の為政者のために尽くす必要はないのです。利権などマフィアのドンに渡しすことなど、
易しいことなのです。個人的に頑張る必要など全くないのです。為政者は、誰のために何を行うのか?勘違いしないようにしてもらいたいと思います。
私でも命と引き換えなら渡すのです。神にお任せすることは、どちらでも同じなのです。未だ、国のため、国際社会のために拘っているのです。
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