矛盾の現象を観察すると、その場々の感情に支配されて直前を
含む以前に言った言葉と、現在ただ今放たれている言葉の関連性が、途切れている状態から生じるものと認識できます。言葉と云うものは想いを
発露する道具なのですから、想いの関連性が途切れてることになります。要するに言葉の内容が食い違っていることではないのです。
言葉の内容は記憶力の問題ですから、以前に語った内容など忘れることがあっても、矛盾を生じさせない人も居るのです。
逆に以前語った内容を覚えていてもその内容に矛盾のあることを云う人もいるのです。ですから、矛盾を生じさせるか?否か?は、
自然の状態では記憶力の問題ではなく、連想力の問題であると認識することができます。
矛盾の発生は、その場々の感情が連想を阻害してできるとも
言えるのです。特に自分本位の感情は、矛盾を創ることは説明するまでもなく、誰でも体験とし知っているものと思います。
生まれつきのものは、分裂症と言われていたものかも知れません。(現在の精神医学上には分裂症と云うものはないのだそうです。多分、
他の概念に置き換えられるものだったと思います)人柄にもよりますが、矛盾した言動の多い人はやはり他人から嫌人われる要素となります。
宗教理念の中で、祈願や信仰とは、別個に自己向上を目指す人は、目瞑想や精神統一の訓練(精進)によって、
感情に支配される性向を防がぐ必要性があるのです。
マ
上記は、努力によって矛盾した言行がなくなることことを示す
ものですが、その究極の心境が孔子の「我、心赴くままにして則を犯さず」の言葉であると認識できます。又、悟りに近い心境を示した
言葉とも云えるのです。(当人は悟ったとはしていない様です)しかし、心境と言葉は別物なのです。心境に達していないのに言葉の持つ
概念だけ自分に取り入れれば、錯覚も起きるのです。不思議とも思えることですがその錯覚が、感情を原因とする矛盾とは別種の矛盾を創り
出すことを、この度発見いたしました。以下、この言葉を参考にして語ことにします。自らを「悟っている」と錯覚している者は、
その場々の感情の発露は、愛と云う想いに裏打されていると思い込んでいるのです。
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メ
要するに関連性のない個々の感情の発露も、他への愛であると
思い込んでいるのです。矛盾が生じるのは当然です。矛盾が生じれば、相手の課題に想いがすり替えられるのです。悟っていないのに悟っていると
錯覚していれば、分裂症と同じなのです。以上は、孔子の心境を批判するものではありません。悟らなくても努力によって、
自分なりに近づけることは間違いないと思います。さらに付け加えれば、本当に悟っている者は、感情発露が全て愛の想いに裏打されていますので、
他人が悪態なとを放つことによって、焼き戻することはできないのです。自分では悟っているか?どうか?は、判断できないのです。
客観的に観て他人に迷惑や害が及んでいるか?どうかで?判断するより仕方がないのです。
注:公安当局に一言ご注意申しあげるなら、矛盾の調査はよいとして
悟っていない者が、悟れる者としているなら、これほど明白な矛盾(の温床)はないのです。調査は、悟っているとしている者が、
本当に悟ってるか?否か?を第一儀にしていただかなくてはいません。論点の本末をすり替えられて、又、おかしなことを行わないように
していただかなくてはいけません。以上は私の言い分であって、要求ではないのです。この言い分を逃れる手段があれば、如何なることでも実行していただいて
結構なのです。以上に関しては、当方の全ての記事について同じことです。
無理なことを要求しているのではないのです。 記⇔(2009-01-10)
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