検証すべき具体的対象は、例えば私に、”事実を言えば、(私が)死ぬ。
言わなければ死なない。Aさんが言えば死ぬ。Bさんが言えば死なない”。と云うような言質なのです。言質が何を目的にしているのか?なのです。
実際に言葉のヤリ取り行われた現場のありよう如何によっては、私を殺すことを目的としたものとも言えるものです。言い換えればそのような言葉のやり取りは、
殺すことを目的にしていなかったことを証明しなければ、犯罪になると考えられます。犯罪にしなくてはいけないとする者と、それを、
真理を追及するための方便としての行為として、犯罪性を拒もうとする者の決着がつかないから解決しないのです。
国には、検証することで、どちらの言い分が正しいか?
を先に判断し確定してもらわなくてはいけないのです。私は、真理の追究を主張されれば、人質を板挟みにされますので国に下から、協力を行わざるを得なくなるのです。
後手、後手に廻ってはいられないのです。下から協力することになれば、個人的問題としては当面は、解決しても又、不都合が生じる可能性もあるのです。
理由は、公の問題としては何ら、解決することなく今まで通り、ゴテ、ゴテ々ヤッテいる間に事態が手の届かない処にいってしまうのです。具体的には、
霊的な根拠をもって出来事現象を、特定個人が、神の権威を行使して審判することも可能になるのです。そこが狙い目かも知れないのです。
具体的にとうゆうことか?述べれば、過って新聞紙上で
肖像写真購入の件で、幸福の科学と争い、勝訴した人がいることを知りした。しかし、当方が、家族の意向で肖像写真を購入したのは、その後のことなのです。
何者にしろ、あわよくば、当方のインテーネットによる公開活動を停止させようとの意図があるとしても、単独には不可能ですから、
カルト側の主張を受け入れなるより方法はないのです。国家公安当局は何を行っているか?と言いたくなります。民衆は、(私も民衆の一人です)
各個の個人的責任など追及して意味がないのです。個人的責任の追及は、国の責任追及の前提
になるものでなくてはいけないのです。
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