宗教指導は、相手の気根や人柄、性格、その時その場の状況と云った
付随要因を考慮することなく、安易に、感謝しなくてはいけないなどと教説すれば、(直接教説しなくても、知識として身につけば)
「あなたは私に感謝しなくてはいけない」などと云うものがでてくるのです。ここのところが宗教と道徳の違うところなのです。
宗教と道徳の違いすら解らない者に「宗教が指導できるか?」と言いたくなります。宗教とは如何なるものか?
と云う原点が抑られてないのです。
又、理解できない人には無理に指導してはいけないのです。指導するなら
道徳指導でなくてはいけないのです。ここで云う理解できない人とは、自分の心が見えない人のことであって、
ものごとの理解力のことではありません。学問に関することでもありません。心の問題は、人それぞれの理解の仕方があるのです。
と言うことは理解力の強弱は意味を持たないこととも云えますが、全く理解力に欠ける人もいけません。かと言って、
理解力の乏しい人の中にも己の心が見える人もいるのです。
ハ
ここのところを一つ取っても、霊的な事柄が深遠であることが解ります。
安易な霊知識で、他人に関係することを推し測ってはいけないのです。霊的なことは自分のみに関して推し測れるのです。
親鸞の生まれ替りであろうが、霊力が有り相手にバチが当たると想おうが、どのように推し測り、口外しようとも自由です。
但し、バチが当たるに関しては、特定個人を対象として言えば脅迫になります。しかし、脅迫とは未来に関することなのですから、
結果に付いて後から、バチが当たったと云っても脅迫にはなりません。
ヒ
もっと言えば、バチが本当に当たったのか?どうか?は神のみぞ知るひと
なのです。この世的には、世評と云った外部の人達が、(決めるのではなく)認めるか?認めないか?の問題なのです。
公の機関が認めるには事実に則しているか?どうか?は、現在までは不可能なことでしたが、今後決めなくてはならにい場合が
生じたとしても、十分な検証がなくてはなりません。さらに付け加えるなら、国家権威といえども、親鸞の生まれ替りか?どうか?は、
裁断できないことです。しかし、神であるか?どうか?は、裁断できなくてはいけないと思います。
ですので立場を変えて、親鸞の生まれ替りか?どうか?は、当人以外の人は
自分が認められないとの理由のみでは、咎めたり非難することはできないのです。しかし、害が及べば咎めなくてはなりませんが、
咎めなくてはいけないと云うものではありません。我慢してもよいのです。自分に反撃される要因があれば、安易には
咎められないことなのです。要するに最終的には法律でしか裁断できないのです。以上はこの世に則した推論思考の例ですが、
反省、検証を含めて、この世のルールで推し測らはなくてはいけないのです。
ここのところを示すのが、私の使命と勝手に想っていますので、何遍でも記します。
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