私の云う霊存在を認めるとは、社会的に認めることであって、法律的に
認めることではないのです。証拠の提供できないものを法律の場に適用できる訳がないのです。
社会的に認める認めないは関係ないと思われるかも知れませんが、行政指導と云うものが存在すれば、
思想背景も考慮しなくてはならないので、無関係ではなくなるのです。例えば、うかつな指導をしてバチが当たった(反作用が起きた)
などの事態が生じれば大変なことになります。当事件で云ったら、ウラ事情を私に告げたら本当に私が死んだ。
叉は、死ぬ展開になった。では、行政の落ち度になります。誰かが死ぬにしても、
因果的な思想背景や正当性も吟味しなくてはならないのです。
反対にバチが当たったと云って、何らかのこの世的原因があるのだから
霊的因果などは、吟味しても(吟味や配慮は個人の問題)社会的に認められないものなら、行政の責任にはならないのです。
(ここでの責任とは風評の次元のものですが、解決がむつかしいから甘く見てはいけません)神の権威を持った人間が存在する社会で、
霊存在を認めることは大きな危険が伴なうものと思います。霊存在を認める社会を求める者は、
自から神の権威を主張すべきではないのです。神の権威を持った者が居ない社会は、霊存在を認めなくてはならないのでもありません。
取引はいけません。取り締る側は、新たな情報に基ずく要素が加われば、方針を変えなくてはいけないのです。
3
具体的内容にもよりますが、指導方針が変わったから、教義内容を
変えてもよいと言うものでもないのです。未だ取り締り、指導は行われていないとしても、民衆を含めて、
知識を持っていることは必要です。未だ取り締り、指導は行われていないから的外れな記述ではありません。
下から上は見えないのです。目上の者は、目下の者に、その人の認識範囲内で、客観的に正当な批判をされるようなことを
行っていてはいけないのです。的外れな批判は仕方がないが、指摘しなくてはいけないのです。
指摘する手段が無いようなことをしていてもいけません。
4
私は家内の的外れな批判にホーページで答える必要があるのです
人間の場合は、少なくとも間違いがあれば認めなくてはいけないのです。目下の者が目上の者を批判すれば、
霊的な害が及ぶようなことを行っていてはいけないのです。それは霊的な意味で許されることではないので、害も起きないのです。
特定個人の認識能力の範囲内で批判してもバチは当たらないのです。(さもなくば、
認識能力の低い者はマインドコントロール叉は盲目的服従から逃れられなくなる)
この世的な上下関係は方便の要素が入っておりますので、部分的には上記に相当する箇所があっても、
厳密には上記には相当しません。
注:上記全般に関しては、取締り当局にも当然言い分があると
思いますので、お聞きいただける人には、聞いていただいた方がよいと思います。(国民の立場で)
以上についても大部分は後知恵による理解でありますので、守護霊のお導きと感謝しております。
(守護霊とはこの世的には自分自身である。この世的な自負分自身には、守護指導霊や悪魔も同居しているので
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