この世の秩序の根源は愛とも言える




この世の秩序の根源は愛とも言えるのです。人間は無意識の内に
些細な愛は誰も行っているのです。その根拠はチョトした親切や思いやりなど、徳を積もうとか相手の為だからなど想いながら行う人などいないのです。 愛を自覚的に行うのはよいとしても、間違った教えの基では邪なものに変質すると云うことです。間違った愛が大手を振って通用するようになれば世は終わりなのです。 善悪の行為は他人に指示もできまが、愛は具体的に行為として指示できる性質のものではないのです。

それは個人々心の中の想いに属することだからです。要するに指導
叉はアドバイスする人が、自分なら、カクカクシカジカの想いをもって行うことを想定して、指示しても行う人は形同じでも想いはそれぞれ微妙にちがうのです。 指導するなら、想いと行いの習慣を身につけることしかできないのです。しかしそれには、指導をする人が愛の概念をキチント理解していることが前提条件となります。 以上については、具体的な愛なる行為を自覚的に行う指導を受けた人達が、全く無意識の愛が、できなくなっいると批判するものではありません。

叉、宗教と言えども、善悪や道徳は説かなくてはいけないと思います。
さもないと間違った愛のチェクができなくなるのです。宗教は善悪が存在しているから必要とされるものですから、抜きにすることはできません。 難しいからと言って間違うこともあり得る者に全宅しなくなるとは、一体何事か?宗教に於ける全宅とは、愛の想いで行うことは行った上で、 結果は良心の中かにまします神にお任せしますと云うことであります。結果に間違いがあれば、良心(神の意⇒対象に侘びるべきだ) に従って詫びるべきは詫びると云うことです。(良心から逃れることはできないのです)

法律や道徳を犯したものは別ですが、宗教では詫びても
許さないと云うものは今度は相手が良心の呵責を受けると云う意味。相手がやせ我慢をしていれば人間には解からないのです。人間は心の段階で、 一番浅い表面意識では、良心の呵責は気付かなくても、潜在意識やその叉奥の深層意識で必ず良心の呵責を受けているものなのです。 上記する良心との格闘を生き神様が、心の外で神の立場を演ずる事になれれば、どのようなことが起きるか?皆様方考えて見ていただきたいと思います。

上記は事実でなければ、そうゆうこともできると云うに過ぎません。
良心に従って行ったなどの言い訳は通用しないのです。謝っても駄目なのです。結局相手に侘びた上で責任を取るのならば、 生き神様など不用なのではないでしょうか?生き神様なら最初から相手に侘びるよう指導できるはずです。但し良心の働きの弱い人や頑固な人には、 有効かも知れません。しかし、それも結局は種明かしをしくては、横道に入ることになるでしょう。

注:愛はこの世がある限り(あの世があっても同じですが)
否定しようにも否定できないもなのです。そしてその概念を扱うのは宗教なのです。 道徳では扱えない概念なのです。愛の概念を間違えて説く宗教は、排除しなくてはいけないのです。 間違っているか間違っていないかは、全人類で決める問題なのです。全人類が間違った選択をすれば、人類は未開民族のような形でしか存続は望めなくなります。 しかし愛そのも残ります。「衆人に勧められることが悪ちえと言えるか」基準は他人に勧められることか?どうか?です。解りましたか?

2007年11月05日⇔木漏れ日の空間「この世の秩序の根源は愛とも言える」より   

  

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