確認事項として大切なことです


繰り返し述べていることですが、麻原も(判決は下っていても
刑の執行ができないと思います。理由は縁起の法則が守られていないと考えられる)高橋佳子も、 大川隆法も処刑の対象にはなっていないのに私は、未だ、諦められてはいないもと認識しています。(言葉は適当でないかも知れませんが、 事実は的を射ています)何処が違うか?考えてはいるのです。大義と大義は衝突します。信念と信念も衝突します。では、大義と使命は衝突するのか? 信念と使命、使命と使命は衝突するのか?使命が廃れば知的弱者は何が護るのか?大義を貫くためには憲兵に相当する存在が必要か?国民の意志は大丈夫か? 手段を選ばず力勝負か?

縁起の法則に反する行為でも、愛と慈悲なら可能です。愛とは何か?
矛盾した愛の行為はあり得ません。他人に愛を求める想いをムサボリ(貧⇔貧欲の貧)と言います。想いは遅かれ早かれ行為に反映します。 途中で気付けばその限りではありません。反省しなくても気付くことはあります。反省を強要するよりも、キチンと他人に理解できるように説明する方が、 宗教では必要です。(自ら向上を求める者に強要は不必要)道徳では反省の強要は仕方ありません。宗教と道徳を混同してはいけません。 我儘を許す行為は愛ではありません。愛が解らないでは宗教の教祖とは言えません。

我儘を許して、尊敬されることはあっても感化できるか考える事です。
尊敬されることを求める想いもムサボリなのです。既成宗教、新興宗教を含めて、自分は感化できたなどと云う指導者は、ムサボリとは言えなくても、 (できたと云う事実は重要です)行いは光(力)にはなりません。自慢をすればマイナス要因になります。慢心が全くなく事実を述べるだけであれば、 光にならないことを覚悟すれば問題ありません。(場合によっては光にならないこともあります)問答を仕掛けてくる人がいれば仕方がありません。 元のホーロクになるだけです。隠徳でも同じです。想うのは仕方ありません。感化の要素となるものは波動です。



▲ラムダム(目次) ▲暁の小道に戻る ▲木洩れ日の空間 ▲不老の泉に戻る