私の示すところの循環文明二順目の社会においても
想念行為で指示を行っても意味はないのです。意味をもたせる必要があれば、言葉や文書、伝言その他の手段で通知しなくてはいけません。
想念で指示したことを、いわば、上書きする必要があります。但し、要望の場合は必ずしも上書きする必要はありません。
相手に受信能力がなければ届かないだけです。相手に受信能力があれば、要望に応じるか?否か?は当事者の想念行為の交換により決められることです。
後は、どのようにして形に残すか?は行に置き換えるより他にありません。
自分は神(神の権威を行使できる)であると云ってはいけないと云う
法律もなく自分は神であると名乗った者が精神異常者であっも罰する法律はないのです。想念上では「お前は精神異常者だ!」と言えば泥試合になります。
泥試合をつづければ、力勝負になり、最後は、「殺し合い」になります。法治社会では、殺せば殺されます。(刑罰を受ける⇒必ずしも処刑されない)
云わば相討ちになります。形の残る表現はできません。決着は他界してから、あの世でつけることになります。当事件は、想念による議論が、
任意の途中ではこの世のルールに持ち込めなくなったのです。
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いわば「法治破壊」です。その責任は、高橋佳子と大川隆法にあります。
大川隆法は、本音など口に出す人間ではないと想像します。質しても無意味です。彼が、トボケテいるか?どうか?は副総裁に質してもらった方がよいと思います。
(検察の仕事)以上の事情を知しっていないと、当事件に関与する人は、同じことの繰り返しが行われてかのように(際限がないように)観えても、
最後は力勝負になります。上記説明(啓蒙)も私にとっては力勝負の一環です。少なくても閲覧者が増えています。良心に抵触する人もでてきます。
即ち、傍観することができなくなる人も出くるのです。
悪いことを行っても、結果が残らなければ法律では罰することはできません。此処で言う悪いこととは、矛盾が生じないようにこうりょして、
「他人が悪い結果を残す」ように仕向ける悪いことです。しかし、道理に合ってさえいればよいと云うものではないのです。道理に従って悪いこともできるのです。
無限にできるか?どうか?は知りません。私の推理では、良心に抵触する事を道理に従って行っていれば、何時かは行き詰まる思えます。
検察側にとっも神の裁きが効いていると思います。神の裁きははじめは個人に、次第に組織に反映するものと思います。
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