当ページは、計らずも国を批判する内容に進展しました。
進展した責任は国にあるのであって私にあるのではありません。自己責任なのです。非公式に国の業務に携わった者、
又は私にとって疑念の生じる者(証拠は得られない)には面談はできません。(公式に国の業務にたずさわっていた人が、
正当な理由で退職した人はその限りではありません)又、民主主義社会では国を批判する門戸を閉じてはならないと云う原則があります。
もし、閉じればまやかしの国家の烙印を押されることでしょう。批判が不当なものであれば、正当な方法で解決しなくてはいけないのです。
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参考として、中国は一党(思想)独裁国家でその思想の下に
民主的に行うと云うように理解しておりますので、お間違えのないようにお願いします。独裁と云っても個人的なヒットラーとは異なるのです。
分り易く言えば国の運営方法が西欧式とは違うのです。国家を破壊させる者には個人的な罪がなくても相応に断罪されることでしょうが、
為政者の腐敗の批判とは本質的に異なるものなのです。宗教思想のない国など成立はしないのです。必ず取り入れなくてはならないと思います。
外国からすれば、宗教思想は自国に害があるか?ないか?の基準で判断されるのです。
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尚、私の人生途上で縁があった奥川恭平翁のご子息が
国家公安委員会委員を務めたと想像すれば、豊田章一郎氏の私を「殺す!」と云う言葉(存在したと仮定して)は方便として通用する、
との見解を示しましたが、氏が方便を使って追い詰め、最後にとどめを指すことも可能なのです。以上は民間人が行うことではないのです。
氏は後に経団連会長になられましたが、霊的に観れば、氏もライバルと捉えられることも否定はできません。しかし、唯の個人をそこまでして殺そうなどと想う者は、
真性の悪魔としか言いようがありません。方便は神の慈悲とも言えるのです。又、霊的ライバルとして観えたとしても同じことなのです。
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あの世が存在ないなら、この世的に害にならないあの世の物語や
霊界の因果を語ってもこの世的には、何ら罪にはならないのです。但し、霊的には罪になるかも知れません。例えば、上位者には如何なる理由があろうとも
背いてはいけないなどの不文律が在るのかも知れません。説明すれば、「方便を悪利用してはいけない」などのキチンとした霊的ルールでも、
この世的にはルールできる根拠がないため明文化することはできなくても、背くと暗黙の内に何らかの不都合が生じると云う事実があれば、
霊的ルールとみなすことができるのです。又、想念がこの世で伝搬しても、この世とあの世を通して伝搬するとは断定できないのです。
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以上は個人的に判断できることですが、それも個人の人権が
保障されていることが前提になります。人権が保障できなければ人類全体の問題です。以下は、私の見解で事実か?どうか?は知りません。
(あの世があるのか?ないのか?すら分からないのだから当然です)幽霊になって出て来れる想念は、非業の死を遂げたとか?非業の死は、
事故などで家族を心配するものもあり、遺した想いのありようは、千差万別なのです。幽霊の在りようも千差万別になるのです。
(悟りに近い高尚なものも低俗なものもある)自己責任を自覚できないものが低俗になり、自己責任を自覚すればいわゆる成仏すると考えることもできます。
キリスト教徒には不敬な見解、表現になりますが、イエスキリストは免罪によって
処刑され、幽霊になって一時の復活を果たしたとすれば、単なる復活の話も単なる伝説ではなくなるのです。動機が高尚なため、
生身の肉体と幽体と区別ができなかったと云う理解の仕方もできるのです。キリストの場合は、既に悟っていたが残した使命を果たすため
復活したと考えることもできます。冤罪(裁判の誤審)によって処刑されたとか?この世に遺した想いがなくては許されないのです。(不可能なのです)
死刑に値する悪行を行えば地獄に行ってまま幽霊になって出ては来れないのです。その根拠は裁判によって死刑になった人が幽霊になって出て来たと云う
話は聞いたことがないのです。
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