大川総裁と例のGLA文書について記すことにします。
彼は、GLA文書の存在を知らなかったとの理由は通用しないと思います。理由はこの世の出来事は、全て見通す能力があると私は聞いていたからです。
当人は全て見通すとは言っていないと主張しても、幸福の科学会員から聞いていたのですから、管理責任があるのです。上記文書の存在は、大川総裁の立場では、
超能力がなくては解り得ないものなのです。さらに上記問題に関して、私をごまかせるとの想いがあったなら、想念の働き自体が「ずるい」
ものになっていると理解せざるを得ません。以上から彼の教えである「善を取り悪を捨てよ」は道徳の次元のもので宗教的なもの即ち、
想念の中味に関するものではないと理解せざるをえません。解り易く言えば形さえ善になっていれば、動機や目的は悪(不徳とするもの、
例えば売名の目的や点数稼ぎ)でもよいと云うことになるのです。
但し、上記は、宗教組織で道徳的な善悪を説くことが無意味であると
主張するものではありません。理由は、想いの次元に関することは、取り立てて中身を省り省り観なくても、感性で判る人もいるからです。
私は、感性でも判りますが、悪知恵も働きますので想いの中身を一応省観ることにしています。GLA文書は発行に携わっている人以外は、調査を行わなくては、
特殊能力の所有者以外は絶対に判らないものなのです。したがって、政治家や外国の要人又は他の宗教団体(全てを見通す能力のないものにか限る)
には基本的な責任はないものと思います。トヨタは発行に携わっているか?どうか?は知りませんが、同文書が発行されたことは知ってているはずです。
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私は、自分に関することは、想像と事実が一致する
場合がありますので、霊的に上級の存在と言われる人は、自分に関係しないことでも想像と事実が一致してもおかしくないと思っていました。いわゆる霊能力です。
しかし、霊能力がないにも拘わらずあると主張すれば、他人を間違ちがに導きます。霊能力は確律の問題ではないのです。
百回中一回でも間違っていれば単なる想像で霊(超)能力ではないのです。想像力と超能力とは同じようでも意味するものは全然違うのです。
他人が想像力の豊かな人を信じることと超能力の確かな人を信じることは全然違うのです。上記の意味が理解できれば、弁証法の論理大会まがいの行為で
リーダーを決めたり善悪の所在を決める行為は何の意味も持たないものと認識します。
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幸福の科学での「肖像写真の購入は断ればよかったか?」しかし
「当方が何故事件解決に協力しなかったか?」と追及した場合協力が、個人的な法律問題になれば、ある程度の実費が必要と言い分けされる可能性もあるのです。
「何に!他所他でもそう言われたケースがあっただと」「いよいよ調査する必要があるなあ〜」取締側の意見ならもっての他と言えます。
「何者なのだ!」「どちらもいけないなどと云うことは通用しませんよ」獄門姫のお遊び相手は今世で結婚しなくてはいけないのです。
今世で辞退していて来世で契ろう等の考え方は、卑劣行為以外の何物でもないのです。さらに、私の云うところの宗教的善悪を教えれば、
道徳的善悪を説く必要はないとするご意見もでるかも知れませんが、流されないためには固定的な基準も必要ですから、道徳的善悪を軽視しないようにして下さい。
尚、トヨタを白とみなせるのは、私が長門金属在職中までで
それ以後私を追いかけてきた行為は、上記GLA文書とは関係なくトヨタ独自の行為とみなしせますので、責任も独立して生じたものと考えます。
事件と関わりたくなかったら追っかけてこなければよかったのです。但し、ノウハウはGLAによって管理されることになり、
私は、会の功績者としての位置が確保できたものと思います。(弘法大師の生まれ替わりは認めなくてはなら勝ったでしょう当初の筋書き通りなのです。
したがって豊田章一郎氏と幸福の科学大川総裁の軋轢の責任の責任転嫁は私にはできません。したがって、
打倒幸福の科学の旗頭は豊田章一郎氏が勤めなくてはならないものです。私が旗頭で氏が協力者なら私に氏にたいして貸しが生じるものと思います。
私の方が協力者であっても私には借りは生じないものと心得ます。
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