推測なら何を言ってもよいとは云うものの、(事実を確かめることが
不可能な場合に限る)やはり言えないものもあるのです。今までは控えておりましたが、我慢できなくなりましたので記すことにします。
トヨタ章一郎氏はクリントン元アメリカ大統領に幸福の科学大川総裁を対象として「アンナ奴は殺してしまわなくてはいけない」ともちかけたように
霊感で感じ取ったこともあります。私も同感ではありましたが、アメリカ大統領に殺人依頼するような行為は、善悪は別のところにあるのです。
アメリカ大統領に指図を行ったようなものなのです。勿論、上記に関して、政府間で公式に持ち掛けことはできないことですので、
広い意味では、章一郎氏の行為も間違いとは言えませんが、結果(借り)を私が負うことはことはできないと云う意味です。
いずれにしろ不都合が生じるのは当然です。持ちかけるなら日本の
総理大臣が行わなくてはいけないのです。(協力の依頼でなくてはいけない)以上を勘案すれば私は、クリントン氏には何の負債もないのです。
要するに外国の為政者との非公式な影響力が生じた事態は、トヨタの非公式な介入にあったことを原因としていますので、
私が結果に対して責任を負う責務はないと云うことです。(途中経過についてはその時々の責任を考慮しております)借りがあるならトヨタが負うことなのです。
さらに付け加えれば、私がアメリカ領事館に各種発案の処遇を提案したのは、上記事情と関係がないことはないのです。
尚、別記する神の存在を信じることと神を信じるの違いは、神を信じる者でも
間違ったものは霊的には容認されないはずです。従って、神を信じるとは、無自覚の内に自分が間違っていないことを前提にした概念です。
しかし、人間は絶対に間違わないとはこの世的にも霊的にも保証されてはいないのです。以上に対して神を証明するには、間違いがあれば許しを乞うことを含めて、
間違いを犯さないようにしなくてはできないのです。以上から神の存在を信じるには、自分が間違いなく行うことを信じることでもあります。
言い換えれば善なる己を信じて行うことができなくてはいけないのです。それに対して神を信じるとは、自分に間違いがあっても神により正しく
罰されることを信じることであります。
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