神は良心の中に存在すると私は思っていますので、以下については
そのことを前提にして記すことにします。そもそも、誰かに詫びると云うことは、詫びた件に関して、詫びた相手の指示に従うことになります。
俗に云う「言うことをきく」ことになります。真実(霊的な)の謝罪は、行いで示さくてはならないから当然です。
では、神に詫びれば神の指示に従わなくてはならなくなります。あの世で地獄に堕ちた場合で、神にしか謝罪できない状態になった場合は、神に謝罪すれば、
神の意向に従うことになります。神には無条件で許してもらえます。良心の呵責が消えるだけです。やり直す条件は自分手で決めるのです。
神の声など聞こえないのです。神と解るもは神ではないのです。但し、信仰を持っている人には、例えば、「イエスの導き」などがあると思います。
この世でカルトを信仰している人は、苦難に遭遇した場合
生き神に助けを求めることになるのです。と云うことになれば、善男、善女と云われる人達は、生き神様に助けてもらうためには、
迂闊なことはできなくなるのです。この世にまします生き神様が本物か?どうか?が大変重要になるのです。しかも下から上は見えないのだから、
(感性にしても、論理にしても、波動にしても、その他何に関しても、事実でもあるのです)生きが神様の意向には無条件で従わざるを得なくなります。
言葉で条件を指示されれば、気持ちにそぐわなくても顔にださなければ、指摘されないで済まされるでしょう。ところが、自分がテレパシー能力がなかった間は、
知らぬが仏で済まされていたにすぎなかったのです。自分にテレパシー能力が備われば、想念上で叱責されることになるのです。
神からやり直しを求められ、超能力の所有の条件も自分で決めて
転生してきた生き神様が、本物なら、人の心の中も見透すこともできるのです。未だ、まやかし者とは断言できないのです。問題は生き神様が、
間違いないようにやり直すことができるか?どうか?なのです。私はそのように理解しています。しかし、次第に過去世のてつを踏んで行けば、
マイナスの業績に応じて、超能力も次第に薄れて行くでしょう。又は、そのままの超能力を無自覚のまま(悪を悪と気づかないまま)悪徳に使用すれば、
坂道を転げるようにこの世の地獄に堕ちて行くことでしょう。誰の目にも偽物だと判るようになり、遂には悪魔の烙印をおされるのです。
しかし、悪魔は神の化身であるとも言われてもいますので
客観的には容易に非難できなくなり、主観的には正当化のようなるのです。乞食と聖者を取り違えることもあり、神と悪魔の判断は安易にではきなくなるのです。
しかも、判断できないで済まされる問題ではないのです。しかし、神とは自分の良心の中に存在するとすれば、生き神様が本物かどうかの判断で悩む必要はないのです。
(生神様の意向に囚われなくなる)下から上は見えないと云う真実にも惑わされることはなくなるのです。人間には如何なる者も良心の発露を行う権利があるのです。
例えば、低知能者でも良心の発露を行う権利があるのです。今自分が、理解できる範囲内で良心の発露を行えばよいのです。
他方、良心に関するもう一つの面があります。良心の中にまします
神の指示に従う、又は、全宅すると云うことは、如何なる悪条件が到来しょうとも、他人のせいにしないで原因は、自分ののせいとして受けとめ、
責任も自分の果たすべきことは果たさなくてはいけないのです。全宅したから神のせいにしても意味はないのです。
結果については全て自分が責任を負うことになるのです。但し、相互間の出来事に関しては、この世は、アチコチの支流(個人)が合流した河口のような状態ですので、
全ての汚れは自分のせいではないのです。しかし、その汚れの中に自分が居ると云うことは、主観的には自分のせいであると云う捉え方にすぎず、
他人のせいにはできないと云う考え方なのです。相互関係と混同すれば、異端な考え方になります。
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