当ページに記す事件をこのままの状態で、放置て、もぐりによる循環文明ニ巡目を行えば、トヨタは社会的に不利になります。
(当人は勿論、私も、その他第三者も国の責任とすることはできなくなる)事件の当事者ですので、国やカルト宗教批判は、布石として行う必要があるとしても
批判を行うだけではいけないのです。積極的に解決に取り組んでいただかなくてはなりません。解決する義務がある義務1があるのです。
私は責任は持てないのです。(私は協力したのであって服したのではないのです)布石や根回しだけでは困るのです。
行ってもらわない方がよのです。 【トヨタ方式でヤルことを自ら認めたも同然である】 GLA高橋佳子と幸福の科学大川総裁が神の権威をめぐって争えば、超能力で相手もしくは、私や豊田章一郎氏叉は 国松元長官その他を殺すことによって、決着をつけるより仕方がなくなると考えられます。(神の権威を否定する私、 他第三者を殺すことができれば、間接的に相手に対して勝を収めたことになる。決着が着けられる)仮に霊子線を切る、その他により、 対象者の生命を絶つことによって、勝ちを収め決着がついたとしても、一般人からすれば、どちらかに神の権威を行使することを 認めることになるのです。国家公安はそまような愚かな(相互間で決着を付ける)選択を許してはいけないのです。 f1 ラブアゲイン 例えば、神の権威の行使を認めない者を超能力で殺してもよいなら 認めない者の立場からすれば、トヨタ方式で何故、神の権威を行使しようとする者を殺してはいけないか?と云う 疑問が沸きます。片手落ちと言わざるを得ません。これほど矛盾した論理はないのです。神の権威の行使を阻害する者を、 超能力で殺してもよいと主張する者がいたとすれば、身勝手な考え方と言わざるを得ません。世の中には霊的存在を認めない人の 方が圧倒的に多いのです。そのような論拠を主張する者は、トヨタ方式を自ら認めたも同然であると認識する必要があります。 t3 人間が神の権威を代行するなどと云うことは認めていけないのです。 何故、神の権威を主張すると、上記のようなことになるか?私見を述べれば、神の権威を維持するためには、 あらゆる人間現象に対して、自らの見解が正しいことを論理で証明しなくてはならなくなるのです。議論が自己主張、叉は、 正当化のための議論となり、通常の形による妥協話などが、できにくくなるのです。私はそのような議論は、 無意味であると考えますので行ったことも行う気持ちもありませんが、推測すれば以上の結論がでるのです。 r7 以上は公の立場で記したものです。個人的立場で記したものとは 区別かして捉えていただかなくてはなりません。要するに公として解決が不可能であれば、(解決を放棄すれば) 個人的にトヨタや国や、私の自称養父の責任を追及しなくてはならなくなり、公の立場からすれば、自称養父は別として、 豊田章一郎氏や国松元長官(スネにキズがあり、借りがありますから論理的に負けますが、不問にしくてはならなくなる)に 同調しなくてはならなくなるのです。寝返えりを繰り返してるのでないのです。どちらの立場で説明するか? 現実はどちらの立場でなすべきか?の問題なのです。今後もそのように記しますので、宜しくご理解下さい。 |